おはぎです。
私は35才から、約8年の不妊治療の末、子供に恵まれずに不妊治療を終えることとなりました。
多くの時間や労力、沢山のお金を費やしたものの、最後は何も手にしていない結末を迎えることに。
そして、不妊治療を終了とした今、私はもう「不妊」ではなくなり、ただの「子供がいない40代」となりました。
妊娠を望む健康な男女が避妊をしないで性交をしているにもかかわらず、一定期間妊娠しないもの
これが不妊の定義ですもんね。
今の私は子供が欲しい気持ちが残っているだけで、妊娠することを考えていないし「妊娠を望む健康な男女」というには、国が定めた規定の年齢から外れてしまっています。
8年高度不妊治療した結果、子供に恵まれなかったことに意味はあったのだろうか、そんなことをぐるぐる考えてしまいます。
「若いころの苦労は買ってでもせよ」
なんて言葉がありますが、私は以前からこの言葉には疑問を持っていました。
(不妊治療開始時はすでに若くありませんでしたが...)
若い頃の苦労は自分を鍛え、必ず成長に繋がる。苦労を経験せず楽に立ちまわれば、将来自分のためにはならないという意味。
http://kotowaza-allguide.com/wa/wakaitokinokurou.html
「苦労」は「辛労」「難儀」「辛抱」とも。
「若い時の苦労は買ってでもしろ」「若い時の苦労は買うて(こうて)でもせよ」ともいう。
若いころから色々と苦労した結果が報われれば、それは良かったね、苦労した甲斐があったね、とはなるものですが。
そうも言えないくらい、人生がねじれてしまう人も目の当たりにしてきました。
私も不妊とは関係なく、苦悩に埋もれてもがいていた頃もありました。
特に、「不妊」と向き合うということは、自信を失ったり、産めない罪悪感や劣等感が芽生えたり。
子供を持てるか持てないかは、自身のアイデンティティに関わることなので、自分を作り上げる「核」のような部分が揺らいでしまい、精神的にも危うくなりがちです。
そんな苦しいこと、経験せずに生きていけるならそのほうがいいし、ましてやチャレンジした結果恵まれないという、私のような立場には、後に誰にも続いて欲しくないと思ってしまいます。
もっと若くて不妊治療をされている方は、私にも計り知れない苦悩があるのだろうなあ、と。
子供に恵まれなくても徳の高い方なら、不妊治療後のその先は、自身の経験を生かして地域の子供のための活動をしたり、不妊に悩む方のサポートなどの役割を担っていくのでしょう。
私も一度くらいそういうことを考えたことはあるものの、不妊治療終了後もまだ気持ちの折り合いがついてないし、そういうことからはもう逃れたいし、今は向き合いたくありません。
でも、その考えは今は、自分の中で「良し」とすることに。
これまで頑張ってきたんだから、自分を甘やかす時があってもいいじゃないの?と。
不妊の肥やしで、誰かのためになることをしない自分に、多少の後ろめたさを感じたりする時もあるけれど。
今持っている不妊の肥やしは、私が昇華できてないものなので、誰にも渡せるものじゃないしなあと。
もう、今はこれでいいや、といった感じです。
不妊治療を終えて1カ月半経ち、私が子供を持てない人生を生きていくこと、ある程度はマイノリティとして生きていく自覚のようなもの、少しは芽生えたような気がすることもあったりして。
不妊治療したこと、意味があったかなかったかはわからないけれど、旦那とがっかりした日も、妊娠して大喜びした日も、ぜんぶ私の人生なんですよね。
不妊治療に真摯に向き合ったことも私の人生の一部だし、まだまだ子供を持ちたかった気持ちに折り合いつかずにいるのも、やっぱり私の人生。
気持ちが伴わなくたって、旦那と共にこの先の人生が続いていく、それだけなのかもしれません。